哲学の本と、少し重いボールペンを持ち歩いている。
カフェに入ると、それを出す。開く。読む。
誰も見ていない。
見栄だということは、分かっている。
カフェで携帯を眺めているより、本を開いているほうが格好がいい。そう思っているから、そうしている。理由はそれだけで、それ以上の理由はない。
ボールペンが重いのも同じだ。軽いほうが書きやすい。重いほうが、手に持ったときに格好がいい。
ただ、誰も見ていない。
隣の席の人は自分の画面を見ている。店員は僕の本の題名を読まない。この見栄には、観客がいない。
見栄は他人に向けるものだと思っていた。
違った。僕が見ていた。
自分がどう見えているかを、自分が見ている。それで満足している。観客は最初から一人だった。
だから、やめない。
格好から入る。中身はあとからついてくることもあるし、こないこともある。こなくても、格好がついた時間は残る。
どうせ生きるなら、格好がいいほうがいい。
最後に、ひとつ。
ニーチェは『悦ばしき知識』の中で、芸術家から学ぶべきことについて書いている。ものを美しく見せる技術を、自分の生活に使えと。まず何より、ごく小さな日常のことにおいて、自分の人生の詩人であれと。
僕の場合、それはカフェで本を開くことだった。
小さくて、見栄で、それでいい。
