投稿者: Kuro.Ni

  • 捨てる靴がない

    捨てる靴がない

    靴が多い。いつのまにか、そうなっていた。

    ずいぶんお金をかけていると思われている。そうでもない。高い靴はほとんどない。数だけが、増えていく。

    先日、古い靴を久しぶりに出した。何年も前の靴なのに、ほとんど傷んでいなかった。

    考えてみれば、当たり前だった。

    靴が増えるほど、同じ靴を続けて履く日がなくなる。月に一度も履かない靴もある。どれも履かれないから、どれも擦り減らない。

    昔は、一年も履けば履きつぶしてしまう靴があった。いまは、捨てる靴がない。だから、増える一方だ。

    大事に履いているから長持ちしているのではない。あまり履かないから、長持ちしている。

    人間関係も、似ている。

    僕は、執着しないほうだ。友人にも、恋愛にも、家族にも。

    それなのに、と言うべきか。だからこそ、と言うべきか。周りには、いい人が残っている。長い関係ばかりだ。

    最後に、ひとつ。

    ニーチェは『悦ばしき知識』の中で、愛と呼ばれるものの多くは所有欲だ、という趣旨のことを書いている。所有を求めない愛があるとすれば、それは友情だ、と。

    執着は、たぶん使いすぎに似ている。

    好きだからと使い続けたら、関係も擦り減るのだろうか。

    色の残る無傷の面を、擦り減って色のない一本の道が横切っている絵
  • 二か月に一度、買いに行くもの

    二か月に一度、買いに行くもの

    二か月に一度、美容室に行く。二、三時間、座っている。

    髪がどうなるかは、あまり気にしていない。

    気にしているのは、その時間が楽かどうかだ。面白いかどうか。できれば、少し役に立つ話が聞けるかどうか。

    期待しているのは、髪ではない。

    椅子に座っている間、何も決めなくていい。もめることもない。損も得もない。話は軽くても重くても、どちらでもいい。

    ただ、楽にいられる。

    こんな場所は、ほかに思いつかない。

    美容室のお金は、髪に払っているのではない。楽にいられる場所に払っている。

    その値段の分があったかどうかは、髪を見ても分からない。分かるのは、座っていた僕だけだ。

    最後に、ひとつ。

    ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』の中で、価値は人間がはじめて事物に置いたものだ、という趣旨のことを書いている。

    美容室の値段は、僕が置いた。髪ではなく、その場所に。

    だから、髪は見ない。

    真ん中に冷たい大きな光、その外に色とりどりの筆が無数に散っている絵
  • もっと言えばいいのに

    もっと言えばいいのに

    二人が出てくる動画を、しばらく見ていた。

    一人は、目に入ったものを忙しく説明する。もう一人は、そうそう、なるほど、ほんとに、と言う。

    途中で気づいた。この人、それしか言っていない。

    そこからは、そればかりが耳に入った。

    苛立った。

    もっと言えばいいのに。何か思っているはずなのに。隣で説明している人は、それで足りているのだろうか。

    僕なら、割って入る。比べて、付け足して、別の見方を出す。そうしないと、聞いた気がしない。

    ただ、画面の二人は楽しそうだった。

    説明する側は、そうそう、と返ってくるたびに先へ進む。止まらない。足りていないようには、見えない。

    足りないと思っていたのは、僕だった。

    あの二人の間では、あれで足りている。足りていないのは、僕の側の何かだ。

    では、あの人は何を考えているのか。

    隣の話を自分でも比べているのか。何も比べずに聞いているのか。聞くだけで楽しいのか。

    外からは分からない。

    分からないから、また見ている。

    最後に、ひとつ。

    ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』の中で、他人に寄せる期待は、自分が自分について信じたいことを漏らしている、という趣旨のことを書いている。

    僕があの人に求めたものは、僕が僕に求めているものだった。

    それでも、聞きたい。

    あの人はいま、何を考えているのだろう。

    左は筆が密で騒がしく、右は空いて見えるが同じだけ筆がある絵
  • 格好から入る

    格好から入る

    哲学の本と、少し重いボールペンを持ち歩いている。

    カフェに入ると、それを出す。開く。読む。

    誰も見ていない。

    見栄だということは、分かっている。

    カフェで携帯を眺めているより、本を開いているほうが格好がいい。そう思っているから、そうしている。理由はそれだけで、それ以上の理由はない。

    ボールペンが重いのも同じだ。軽いほうが書きやすい。重いほうが、手に持ったときに格好がいい。

    ただ、誰も見ていない。

    隣の席の人は自分の画面を見ている。店員は僕の本の題名を読まない。この見栄には、観客がいない。

    見栄は他人に向けるものだと思っていた。

    違った。僕が見ていた。

    自分がどう見えているかを、自分が見ている。それで満足している。観客は最初から一人だった。

    だから、やめない。

    格好から入る。中身はあとからついてくることもあるし、こないこともある。こなくても、格好がついた時間は残る。

    どうせ生きるなら、格好がいいほうがいい。

    最後に、ひとつ。

    ニーチェは『悦ばしき知識』の中で、芸術家から学ぶべきことについて書いている。ものを美しく見せる技術を、自分の生活に使えと。まず何より、ごく小さな日常のことにおいて、自分の人生の詩人であれと。

    僕の場合、それはカフェで本を開くことだった。

    小さくて、見栄で、それでいい。

    薄い朝の色の中に、整えられた小さな一角と、太い一本の線がある絵
  • 小さくなってから

    小さくなってから

    別れを切り出すのは、いつも僕のほうだった。

    そのとき僕は淡々としていた。付き合うというのは終わりがあるということで、終わるときが来たなら、そういうものだと思っていた。

    だから、受け入れられない相手が分からなかった。何度も同じことを聞いてくる。もう決まったことなのに、と思っていた。

    一度だけ、逆になった。

    理由は聞けなかった。ちゃんと始まってもいないうちに、終わった。

    納得できなかった。胸の片側だけが空いて、しばらくそのままだった。

    自分が小さくなっていくのが分かった。

    小さくなった場所から、前にいた人たちが見えた。

    何度も同じことを聞いてきたあの人は、答えが欲しかったのではない。答えを聞いても収まらなかっただけだ。僕がいま、同じところに何度も戻っているのと同じように。

    分かることと、受け入れることは別のことだった。分かっても、収まらないものは収まらない。

    あのとき僕が淡々としていられたのは、切り出す側だったからだ。それだけのことだった。

    僕は早く忘れなかった。忘れられなかった。

    だから、長く小さいままだった。そのぶん、長く見ていた。

    痛みは、痛いままにしておいたほうがいい。薄めていたら、何も見えなかった。

    恋愛相談をよく受ける。答えを持っているからではない。すぐには収まらないのが普通だと、知っているからだ。

    あの一度がなければ、知らなかった。

    最後に、ひとつ。

    ニーチェは『善悪の彼岸』の中で、深い苦しみは人を高貴にする、という趣旨のことを書いている。

    僕は高貴にはなっていない。小さくなっただけだ。

    ただ、小さくなってからのほうが、よく見えた。

    ある境を挟んで筆の向きが反対になっている絵
  • 九割が黒

    九割が黒

    服の九割が黒だ。

    デザインはほとんど入っていない。全部ルーズフィット。買う店もだいたい決まっている。

    昔からそうだったわけではない。

    流行っているもの。デザインがきれいなもの。ただなんとなく惹かれたもの。

    その三つが全部選択肢に入っていた頃は、服を買うのにひどく時間がかかった。見るものが多くて、考えることも多くて、それでいてよく失敗した。

    きれいなものと、自分に合うものを、見分けられていなかった。

    三つが並んでいると、これは本当に自分に合っているのか、という判断が濁る。流行っているという理由も、きれいだという理由も、それ自体は間違っていない。間違っていないから、なおさら押しのけてくる。

    今は決めてある。

    目につくもの——服と鞄は、黒。

    目につきにくいもの——靴下と靴と小物は、思い切っていい。

    だから朝、迷う時間がない。考えることもない。それでいて、服を褒められることは前より増えた。

    選ぶものが減ったのに、見えるものは増えた。

    同じ黒の中にも違いがある。生地が変われば落ち方が変わるし、丈が少し違うだけで別の服になる。前は見えていなかった。選択肢が広かった頃は、そこまで目が届かなかった。

    狭くしたから、中が見えるようになった。

    毎日違う服を着る楽しさは、たしかに手放した。

    ただ、僕はその楽しさをうまく扱えなかった。選択肢が多い日ほど時間がかかって、選んだあとで後悔することも多かった。

    楽しいというより、面倒だった。

    最後に、ひとつ。

    ニーチェは『悦ばしき知識』の中で、自分の性格に「様式を与える」ことについて書いている。自分の強いところも弱いところも全部見渡したうえで、一つの計画の中に収める。そうやって、どれもが一つの形として見えるようにする。稀で、大きな技術だと。

    ニーチェは服の話をしているわけではない。それでも、たぶん同じことだ。

    選ばないと決めることも、選ぶことのうちに入る。

    ほとんど黒の布地の中に、小さく色のある一点がある絵
  • なぜそう思うのか、が知りたいだけ

    なぜそう思うのか、が知りたいだけ

    学生のころ、宇宙人と呼ばれていた。

    悪口ではなかったと思う。ただ、言うことが突拍子もないらしかった。

    みんなが話している流れの、少し横から口を出す。関係のないことを言い出す。そういう扱いだった。

    今でも、たまに言われる。

    ただ、僕の中では突拍子もない。

    Aを聞いて、前に見たBを思い出して、両方に共通するCがあると気づいて、ではDはどうなんだろう、と考える。

    そういう順番で頭が動いている。

    ただ、AからDまでの途中を口に出さないだけだ。だからDだけが、何の前触れもなく出てきたように見える。

    唐突なのは僕の考えではなく、僕の省略の仕方だ。

    だから、人と話すときによく聞く。

    なぜそう思うのか。

    反論したいわけではない。相手の中にもあるはずのBやCが知りたいだけだ。結論だけを見ても、その人が何を見ているのかは分からない。

    けれど、この聞き方は相手によってはっきり分かれる。

    少し考えて、丁寧に答えてくれる人がいる。そういうときは、こちらが想像もしなかった道筋が出てくる。

    一方で、防御に入る人もいる。責められていると受け取って、自分の意見を守り始める。

    たぶん、僕の聞き方の問題でもある。「なぜ」という言葉は、質問にも詰問にも聞こえる。

    それでも、聞くのをやめようとは思っていない。

    最後に、ひとつ。

    ニーチェは『道徳の系譜』の中で、ものを見るというのは常にどこかの位置から見ることでしかない、という趣旨のことを書いている。だから、その事柄に向けられる目が多いほど、より完全な像に近づく、と。

    僕が「なぜそう思うの」と聞くのは、相手を説得したいからではないのだと思う。

    目を、一つ借りたいだけだ。

    いくつかの流れが一つの光のところで出会う絵
  • 何を考えていたか、は残らない

    何を考えていたか、は残らない

    ブログを始めることにした。

    理由を聞かれたら、たぶんうまく答えられない。何かを伝えたいわけでも、誰かに読んでほしいわけでもない。

    ただ、残しておきたかった。

    写真は撮る。予定はカレンダーに入っている。誰と会って何を食べたかは、探せばだいたい出てくる。

    出来事のほうは、残っている。

    残っていないのは、そのとき何を考えていたか、だ。

    三年前の春に何があったかは思い出せる。でも、それをどう受け取って、何が引っかかって、どう納得したのかは、もう出てこない。

    その部分だけ、きれいに抜け落ちている。

    もっとも、残らなくていい、という考え方もある。

    忘れるから前に進めるのだし、昔の自分が何を考えていたかなんて、読み返したら恥ずかしいだけかもしれない。実際、たぶん恥ずかしい。

    それでも構わないと思っている。

    恥ずかしいということは、その間に何かが変わったということだ。何も変わっていなければ、恥ずかしくもならない。

    だから、変わったとわかるように、変わる前のものを置いておきたい。

    書くのは、たぶんどうでもいいことばかりになる。服のこと、恋愛のこと、週末のこと。

    大事な場面では、人は少し取り繕う。どうでもいい場面では、取り繕う理由がない。

    結論は用意しない。考えた順番のまま置いておく。

    最後に、ひとつ。

    ニーチェは『反時代的考察』の中で、忘れることのできない人間は幸福を見ることがない、という趣旨のことを書いている。

    書き残すというのは、その反対をやっている気もする。

    でも、たぶん逆なのだと思う。

    頭の中に置いたままだと、いつまでも抱えていることになる。外に出してしまえば、忘れてもよくなる。

    僕は、忘れるために書いているのかもしれない。

    残ったものがひとつ、あとは散っていく絵